果たして私の価値とは?
これは必ずと言って良いほど自問自答した事があるのではないでしょうか。そしてその答えとして「まあ高くはないのは確かだ」くらいの自己評価になっている人がほとんどではないだろうかと思うのです。
ここで財団法人日本青少年研究所から出ている「高校生の心と体の健康に関する調査」のデータを引用すると、この問いに対して価値のある人だと思うと言う意見を国別に見てみるとやはりダントツにアメリカがトップ(57.2%)に立っている。続く中国(42.2%)、韓国(20.2%)、・・・そして日本(7.5%)と。このデータだけを見ても「あ。。やっぱり」と思えてくるのではないだろうか。
その背景には国の文化が大きな影響を与えているのは確かな事であるのは明白です。では一体なぜこんなにも差があるのだろうか。もちろん様々な要因が挙げられるだろう。その中でも恐らく占める割合がかなり高い要因は、「褒められた事があまりない。」と言う事であろうと思わます。これはやはり欧米では当たり前に出来ている事がアジアの人々には、殊更に日本にはそれが顕著であると容易に推測されるのです。また、そうなった要因として「他人に迷惑をかけてはならない。」と育てられる日本の文化の中に鍵がある様に思えてくるのです。この言葉の裏を返すと「迷惑をかけないで歩むのが当たり前。」と言う事ではなかろうか。その様にするのが当たり前なので、欧米であれば褒められる事柄であっても日本では当たり前なので褒める事をしない。この違いが結果的に自分に対する低い肯定感、価値がない人などと言ったネガティブな思いを誘発していると思えるのです。
では、聖書ではこの観点をどの様に見ているのでしょうか。その答えは「あなた(今この文を読んでいる)は高価で尊い。」と語っています。ここで語るのは天地万物をお造りになられ、あなたと私、全てのものをお造りになられた神様があなた(私)を尊いと言って下さっているのです。この世では何かの功績を残した人、何かの秀でたものを持っている人、などがその対象として思い浮かぶものです。しかし、この御言葉は「〇〇だから尊い。」とは一切語っていません。むしろ「わたしの目には・・・」と語っています。この言葉の中には、あなた(私)がどの様な環境で、どの様な性格で、どの様な歩みをしているかは全く問うていないと言う事です。まさに親が子を思う気持ちそのものなのです。
更にこの御言葉の後半はそんなお方があなた(私)に対して、「わたしはあなた(私)を愛している。」と語っているのです。「私は神様を知らないのにどうやって私を愛すると言えるの?」と言う疑問が出てくるのが普通です。しかし、神様はあなた(私)をお造りになられたお方であり、あなた(私)をあなた(私)が知る以上に知っていて下さるのです。それ故に、例えあなた(私)人としての価値がないと思っていても、神様はあなた(私)を高価で尊い、愛していると語って下さるのです。信じようにも神様が目には見えないので信じ難いですが事実なのです。神様はあなた(私)がその愛に気がつく様に助けて下さいます。ぜひ、神様の御言葉によってその素晴らしい世界を知っていただける様、イエスキリストの御名によって祝福致します。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。」
”イザヤ書43章4節前半