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人はなぜ不安になる?

不安からの解放は無理なのだろうか?

私達の人生の中で不安と恐れの連続であると言っても過言ではない事は誰もが承知の事であります。では、そんな私達の歩みの中で何が私達をそうさせ、何が私達をそこから解放してくれるのかを探ってみましょう!

 

私達の歩みは未来に対する期待と同時に不安・恐れが正に紙一重であると言えるのです。それは、私達が未来を予知する事が出来ないからであると言えます。例えば、これを野球の試合をスタジアムに見に行った時の事を考えてみましょう。自分の応援しているタイガースが宿敵ジャイアンツを倒せるか、期待に胸を膨らませていくわけです。そして、双方競り合う中で一喜一憂するのです。そして、最後の最後まで手に汗握る観戦の結果見事にタイガースが勝ったとします。その「勝ち」の結果が分かるまでハラハラドキドキの心臓が高鳴る時を期待半分・不安半分で過ごすのです。そして、これとは違うケースを考えてみましょう。既に勝ちと分かっている試合を録画で見る試合です。もう既に勝ちは分かっているのでそれまでの戦いがいくら劣勢が続いていても何の不安もなく見る事が出来るのです。むしろ、「へぇ~!ここから逆転優勝するのか~!!」と客観的に試合の運びを見る事が出来るのです。

 

この双方には大きな違いがあります。前者の方は結果が分からないが故に様々な憶測で不安や恐れ生み出していくのです。しかし、後者は既に勝ちが分かっている故に全くのストレスなしに見る事が出来るのです。同じ野球の試合を見るのでもこうも違いが出てくるのです。また、一番下にある添付ファイルの統計表を見て分かる様に、その不安要素のどれもが未来・将来に関する不安なのです。未来・将来が分からない故に様々な憶測でマイナスな思考になってしまい更に不安・恐れが募っていくのです。

 

では、この不安・恐れからの解放に関して聖書ではどの様に語っているのでしょうか。下記の御言葉は神様が私達に対する計画をよくご存知である事が記されています(イザヤ書29章11節前半※1)。「え?神様が私の事を知っているって?」と思うのが普通です。しかし、聖書では私達は母の胎で形造って下さった(イザヤ書44章24節※2)と記しています。学校教育で進化論があたかも真理であるかの様に教えられた私達にとって、この御言葉は中々簡単に受け入れられる言葉ではありませんが(皆が受け入れられないと言って真理ではないと言う事は無理があるところでもあります。)御言葉は確かにその様に語っています。と言う事は、私達を造った方がおられるのであって決して偶然に生まれて来たのではないと言う事です。

 

私達をお造りになられたので私達の事を自分が自分を知る以上にご存知な方であるのです。どんな工作品や美術品も必ず作者がいて、製作者がいるのです。そして、その作者や製作者がその工作品・美術品を誰よりも熟知しているのです。それと同じ概念です。私達をお造りになられたが故に私達を誰よりもご存知なのです。同じ様に、工作品・美術品を作成した作者・製作者の意図・目的が必ずあるのです。聖書はそれが神様と私達造られた者との関係であると説明しています。これらの事を総合すると神様は私達を明らかに目的を持って造って下さった事。また、その歩みを祝福と恵みに満ちたものとなる様に願われている事。そして、それは不安と恐れを与えるのではなくむしろ平安・将来・希望を与えるものであると語っているのです。

 

さて、私達を、そしてあなたをお造りになられた神様を知り平安と将来・希望を与えられ豊かなハッピーライフをご一緒に謳歌しようではありませんか!!

※1

わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている

──主のことば──。

それはわざわいではなく平安を与える計画であり、

あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

イザヤ書2911

※2

あなたを贖い、あなたを母の胎内で形造った方、主はこう言われる。

「わたしは万物を造った主である。

わたしはひとりで天を延べ広げ、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。

イザヤ書4424