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もう死を選ばなくても大丈夫

2022年の日本の自殺者数は21,881名。計算すると1日に約60名の尊い命が自らの選択で失われていったのです。

 

「自殺」ー 極端な選択と思える行動ではあるが本人にとってはもう他に選択肢がなかったのは事実であります。

先月の12日にも、タレントのRyuchell氏が自らの命を絶ったのは記憶に新しいところであるでしょう。

Ryuchell氏は生前に、「悩み相談アプリ」を利用していた事が明らかになっています。

「育児放棄」、「女性になりたい」と言う欲求から来る誹謗中傷など、様々な憶測が飛び交っている中での自殺でした。

 

Ryuchell氏は結果論として、「悩み相談アプリ」による助けでは、「生きる」と言う一筋の希望を見出せる事が出来なかったのです。

もちろん、そのことによってある程度の効果はあったかもしれません。

しかし、肝心の最終選択の場では「生きる」と言う選択をする事が出来なかったのです。

 

では、なぜ最終的に「生きる」と言う選択が出来なかったのでしょうか。

もちろん、様々な要因があった事と思います。芸能人が受けるストレスは恐らく一般人には想像を絶するものがあるでしょう。

であればあるほど、何かに頼りたくなると言うものでしょう。

これをお読みになっておられる方達の中でも、「生きる」と言う選択肢が空前の灯火となっておられる方も少なくはないかもしれません。

 

そんな時に、果たして何を信じ、何に頼れば良いのでしょうか。

お金でしょうか。地位でしょうか。名誉でしょうか。ー

それらのものは大事な最後の選択をする上で何の助けにもなりません。

それらのものは「生きる」事を選択し続ける時に力になるからです。

 

そんな時、聖書は「生きる」選択をし続けるヒントを記しています。

 

※1イザヤ書53章3~5節には、次の様に記録しています。”彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。

しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。”と。

 

これは、イエスキリストが全人類の救いのために自らが罪を代わりに背負って死んで下さえう事を預言した御言葉なのです。

つまり、イエスキリストが身代わりに死なれる事で私達人類が生きる様にして下さったのです。

これは、イエスキリストが死んで私達に「生きる」ようにと環境を整えて下さったのと同じなのです。

それゆえに、私達はどんな辛い環境の中にあっても「生きる」事が出来る様にして下さったのです。

 

※2さらに、テサロニケ人への手紙第一5章10節を見ると、次の様な御言葉が記録されています。”主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。”と。

 

イエスキリストが私達の身代わりに死んで下さっただけではなく、私達が主イエスキリストと共に「生きる」様にして下さったと記しているのです。

これは、正に神様の愛が私達に注がれている証拠だと言えるのです。

イエスキリストはこれを読んでおられる全ての方達に「生きる」事で神様の愛を知る様に願っておられるのです。

そして、様々な苦しみや辛さを代わりに背負って下さるのです!!

この様なお方が他におられるでしょうか!!

イエスキリストを信じるクリスチャンはその事を知ってキリストと共に「生きる」歩みを始めた人達なのです。

ぜひ、お近くのプロテスタントのキリスト教会に足を運んで下さりイエスキリストと共に歩む方法をお聞き下さい。

 

もう死を選ばなくても大丈夫なのです!!

※1

彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。

しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

イザヤ書533〜5

※2

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。

テサロニケ人への手紙第一510