私達は自分に対して傷つく様な言動をしたり何らかの不利益を被る様な言動をした相手には復讐心が燃えるものです。
それは「目には目を、歯には歯を!」と言う慣用句があるくらいです。やられたらやり返す。いや、倍返しにしてやらないと気が済まない・・・
これが私達人間の本能的なものでしょう。しかし、その本能通りに生きると実は自らの首を絞める事になるのです。
そんな中、聖書は「赦す」事を推奨しています。もちろん、それは感情的にはそうしたいと思う部分もありますが、いかんせん理性では中々実行できないのも事実です。
新約聖書のマタイの福音書18章23~35節までを見ると私達の姿を如実に表している箇所が記録されています。
イエスキリストが例えを通して語られた事です。
1人の王が家来達と清算する時に王に1万タラント(1タラントは6千デナリ。1デナリは1日の労働の賃金に相当)の負債がある人が王から返済の督促を受けたが返済の余裕がなく王にすがりついて返済を免除してもらったのです。
ところがその家来に百デナリの借金のある仲間の人が通り過ぎた時、彼はその人の首を絞めながら返済を要求しました。
その人は返済の余裕がなく返済延期を求めたのですが彼はそれにも関わらずその人を牢に入れてしまったのです。
ここに家来の姿が強烈に描写されているのです。王から1万タラント(16万年分の年収)の返済をゆるされたにも関わらず、自分に百デナリ(百日分の賃金)を借金している仲間を赦さなかったのです。
この差は歴然としています。でもこれが私達人間の罪性(犯罪を犯すとか言うものではなく神様と関係なく生きていく事自体)によって現れている現象です。
そんな中で聖書は人をとことんまで赦す事を推奨しています。
先程の御言葉の前の節のマタイの福音書18章21~22節に次の様に記録されています。
※1:マタイの福音書18章21~22節には、次の様に記録しています。”そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。”と。
これは、七を七十倍するまで、つまり490回までは赦して、491回目からは赦さなくても良いと言う話ではありません。とことんまで赦しなさいと言う事なのです。
でも、それでは私達は感情が納得しません。付けられた傷は相手にも味わわせないと気が済まないものです。
そこで、聖書は次の様に語っています。コリント人への手紙第二2章10節です。
※2:コリンと人への手紙第二2章10節を見ると、次の様な御言葉が記録されています。”あなたがたが何かのことで人を赦すなら、私もそうします。私が何かのことで赦したとすれば、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。”と。
これは、イエスキリストが私達の罪の身代わりに死んで下さった事と関連づけて記しているのです。本来はアダムとエバの犯した罪以来、その罪を継承している原罪があるために神様との断絶が生じたのです。そして、その罪から私達を救うためにイエスキリストは身代わりに十字架で死んで下さったのです。それを通して神様はイエスキリストの十字架の御業に免じて私達を赦して下さったのです。だからこそ私達も私達にした他人の悪を赦しなさいと語っているのです。この事から、真の赦しをしようと思うのであればイエスキリストの十字架の罪の赦しの恵みを知らなければならないのです。知らなければならないのではなく、知る事で真の赦しを実践することが出来るのです。そして、「憎しみ」の負のスパイラルから脱出することが出来るのです。そして、神様が用意して下さっている素晴らしい人生を歩むことが出来るのです。
「もう倍返ししなくても済むのです!!」
※1
”そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。”
マタイの福音書18章21~22節
※2
”あなたがたが何かのことで人を赦すなら、私もそうします。私が何かのことで赦したとすれば、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。”
コリント人への手紙第二2章10節